1859年、LouisとWilliam兄弟は父の事業に参加します。
そして社名もJ.L.Stifel & CoからJ.L. Stifel and Sons,
Incと改められました。
1866年ごろから、徐々にプリントの工程がそれまでの人力によるブロック、要するに「ハンコを使ったプリント」から近代的なシリンダーを使ったプリントに少しづつ置き換えられていきます。
1870年代にはキャラコのプリント事業は順調で、アメリカでも有数の大きな工場だったそうです。
さらに、そのキャラコは輸出され、遠くアフリカでも人気であったと複数の資料に記載されていました。
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1880年ごろ、Stifel社はニューイングランドの会社より、蒸気機関で動くプリント機を購入します。
ローラー状のシリンダーにはプリントの柄が刻まれています。
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左はサークル柄、右はキャラコでもありそうなフローラル柄とでも言えば良いのでしょうか。
それまで、熟練職人の腕に頼っていたプリント工程が機械に置き換えられ、安価に大量に、そして何より、ストライプ状などの柄でも問題なく作れるようになりました。
この時にいたって、いよいよ「Wabash」登場の下準備が出来たことになります。
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左は1950年ごろの写真ですが、プリントの方法には大きな変化は見られません。
シリンダーはバットに浸されながら、送られてくる生地にプリントし、そして、そのバットの染料や抜染剤を人が継ぎ足しています。
この抜染剤(Acidと英文ではかかれています)が、銅製のシリンダーを痛めるため、徐々に柄は不鮮明に、にじんでいったそうです。
最終的には、シリンダーを交換していたのでしょう。
同じWabashなのに、微妙に大きさが違ったりという、いわゆる「ロットぶれ」が起きていた原因はここにあるようです。
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